県率短期大学の歴史について解説します
概要
鹿児島県立大学では全国数少ない公立短期大学であり、鹿児島県内においても長年にかけて莫大な影響力と信頼を抜本から築いている。そんな鹿児島県立短期大学はどのような経緯を辿ってきたのか深めていこうと思う。しかし、本題に入るにあたってご了承願いたいのが、今回は著作権を考慮し、史料画像を添付できないため各自のご想像に委ねたいと思う。
沿革
現在の下伊敷キャンパスはかつて第6師団歩兵第45連隊兵営地だったため、第6師団歩兵45連隊の沿革を冒頭に記載する
【第6師団45連隊時代】
1896年(明治29年) - 熊本城内にて連隊本部を設置
1897年(明治30年)3月 - 鹿児島市外の伊敷村に転営
1898年(明治31年)3月24日 - 軍旗拝受
1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍
1914年(大正3年)1月12日 -
桜島の大正大噴火及び桜島地震が発生。歩兵第45連隊は照国神社に衛戍司令部を置き、混乱していた鹿児島市内の火災防止及び治安維持にあたる
1922年(大正11年) - 遼陽に駐屯
1924年(大正13年) - 帰還
1928年(昭和3年)4月 - 済南事件に2個大隊が出動
1931年(昭和6年)11月19日 - 陸軍特別大演習参加後の昭和天皇が練兵場に行幸
1933年(昭和8年) - 満州事変後に熱河作戦や長城作戦に参加し11月に帰還
1937年(昭和12年)
7月 - 盧溝橋事件の後に動員
8月 - 豊台に到着し永定橋で中国軍と交戦
10月 - 杭州湾作戦に参加
12月 - 南京攻略戦に参加
1938年(昭和13年)5月 - 徐州会戦に参加
1939年(昭和14年)
3月 - 南昌作戦
9月 - 贛湘作戦
1940年(昭和15年)5月 - 宜昌作戦
1941年(昭和16年)
1月 - 陸水作戦
9月 - 第一次長沙作戦
12月 - 第二次長沙作戦
1942年(昭和17年)
4月 - 浙贛作戦
ガダルカナル島救援のため第6師団が派遣されることとなるが、輸送船団がトラック島付近に来たところでガダルカナル撤退が決まり、急遽ブーゲンビル島に行くこととなる
1943年(昭和18年)
1月 - ブーゲンビル島エレベンタに上陸し、島の中部キエタに駐屯する
11月 - アメリカ軍はタロキナ岬に上陸、以後本連隊はタロキナをめぐる攻防戦を展開
1944年(昭和19年)3月 - 第二次タロキナ作戦を実施するも壊滅する
1945年(昭和20年)
8月 - 終戦。最終的に帰還・復員できたのは六千余名のうち八百余名
【鹿児島県立大学時代】 11949年2月21日:旧制県立鹿児島医科大学(または県立鹿児島医学専門学校)と鹿児島県立工業専門学校が統合され、新制県立鹿児島大学の設置が認可される。 1949年4月:県立鹿児島大学が開学。 工学部が設置され、県立医大・医専は旧制のまま存続する 。 1949年6月22日:鹿児島県立大学と改称される。 1950年3月:旧制鹿児島県立女子専門学校を統合し、短期大学部が設置される。 1951年3月:旧制県立鹿児島医科大学予科が廃止される。 1952年2月:医学部(4年制)が設置される。 入学資格は、4年制大学に2年以上在籍し、所定の科目を修了した者とされる。 1952年3月:旧制県立鹿児島医学専門学校が廃止される。 1952年4月:医学部附属病院(鹿児島市山下町)が類焼する。 1955年1月:工学部に医学進学課程が設置される。 1955年7月:国立に移管され、鹿児島大学の医学部・工学部となる。 1958年4月:移管が完了し、鹿児島県立大学が廃止される。 短期大学部は独立して鹿児島県立短期大学となる。 1961年3月:旧制県立鹿児島医科大学が廃止される。 |
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【 鹿児島県立短期大学時代】
1922年
鹿児島県立第一高等女学校に専攻科(3年制)を開設
1927年
専攻科を第一部(家事科)、第二部(裁縫科)に分割。
1947年
鹿児島県立女子専門学校に改組(3年制)し、以下の学科を置く。
国文科
英文科
保健科(10月、生活科と改称)
被服科
1949年
10月に文部省に対して短期大学の設置認可に関する申請を行った。なお、学科・専攻は以下の通りである。
国文科 入学定員30名
英文科 入学定員30名
生活科 入学定員25名
被服科 入学定員25名
社会科 入学定員25名
1950年
3月14日 短期大学の設置が文部省から認可される。
4月1日 鹿児島県立大学短期大学部が以下の学科体制で開学する。
国文科 入学定員30名→文科 入学定員60名
英文科 入学定員30名→文科 入学定員60名
生活科 入学定員25名→家政科 入学定員50名
被服科 入学定員25名→家政科 入学定員50名
社会科 入学定員25名→30名
1951年
4月1日 学科を増設
商経科
第一部 入学定員30名
第二部 入学定員60名
電気科第二部 入学定員40名
同 栄養士養成施設に指定される
1959年
4月1日 キャンパスが移転。現在の聾学校付近から鹿児島大学教育学部・県立大学工学部の跡地(現キャンパス)へ
1960年
3月31日
電気科第二部が廃止される
1995年
4月1日 学科名・専攻名を変更
家政科→生活科学科
被服専攻→生活科学専攻
文科→文学科
国文専攻→日本語日本文学専攻
英文専攻→英語英文学専攻
商経科→商経学科
[ギャラリー]
県短の正門は、歩兵第45連隊の営門
左側の門柱の近くには、立哨小屋の基礎が残存
※立哨小屋→警備員(当時の警護係)が立って警戒する場所
当時の境界塀と排水溝が今も現存
鹿児島県立短期大学のキャンパス内に第6師団歩兵45連隊の記念碑または慰霊碑がないか探索したが、一つも発見できなかった
鹿児島県立短期大学自治会を中心に第6師団歩兵45連隊の兵営地跡の石碑または慰霊碑・銅像を建立する必要があるだろう